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川崎平右衛門

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新田開発

川崎平右衛門像 川崎平右衛門は、1694年(元禄7年)、現在の府中市押立町で名主の子として誕生した。
 1716年(享保元年)、八代将軍・徳川吉宗によって「享保の改革」が始まった。この年、平右衛門は 栗の実を将軍吉宗に献上した。平右衛門は、府中市の原野を開墾して栗林を作ったり、 押立に竹林を栽培し、水害防備林として機能させることにより、多摩川水防の強化を図った。
 享保7(1722)年、82ヶ村に新田をつくり、石高11万2千石の増収を図る武蔵野台地の開発が始まった。 1740年(元文三年)、一連の功績により大岡越前守から農民扶助の功により名字帯刀を許され、 さらに武蔵野新田開発の世話役を命じられた。北(現・鶴ヶ島市)と南(現・小金井市)の2か所に陣屋を 設け、新田開発の拠点とした。北の陣屋跡は残されているが、小金井公園近くにある南の陣屋跡は、 残念ながら無くなってしまった。また職務怠慢などの理由で水元役を解任された玉川兄弟に代わり、 玉川上水の維持管理にも深く携わった。
 21年間で約500町歩に渡る新田を開発した平右衛門は、その功績により 1743年(寛保3年)、大岡越前守の支配下関東三万石の支配勘定格の代官になった。
1745年(延享2年)多摩での実績が認められて、正規の代官として美濃国本巣郡へ支配がえとなり、四万石を支配した。 ここは輪中堤防を廻らした洪水地帯で、治水工事に功績を残した。
 平右衛門は1762年(宝暦12年)、石見銀山の石見国大森代官を任じられた。 1767年(明和4年)、勘定吟味役兼諸国銀山奉行となった。同年6月、73歳で没した。
 
↑ 写真は、府中市郷土の森美術館にある川崎平右衛門像

小金井の栗の始まり

川崎平右衛門は、原野だった小金原に栗を植え、農民を救うとともに将軍吉宗に栗を献上した

小金井桜の始まり

武蔵野台地の新田開発をし、玉川上水改修の折、小金井橋付近の両岸に山桜を植えた

稲城の梨の始まり

美濃から梨の穂を持ってきて多摩川流域に接ぎ木し、多摩川梨の元になった。