宝永4年(1707年)富士山大噴火>
◆出典:静岡大学教育学部総合科学教室 小山真人教授「富士山歴史噴火総解説」
● 宝永4年末に起きた大規模かつ爆発的な噴火(宝永噴火)については,江戸の近郊での事件ということもあって,数多くの記録・文書・絵図が残されている.それらの一部は武者(1943a)に採録されているが,その後も歴史学者による史料収集が続けられ,主として地元の県市町村史の中に採録され続けている.それらを用いて,被災・復興過程の検討(井野邊,1928;若林,1996a)や噴火絵図の吟味(若林,1996b)などがなされているが,火山学者による噴火過程の吟味はごく限られたものしかない(大森,1918;Tsuya, 1955;宮地,1984;中村ほか,1986など).史料の量や質から考えれば,噴火堆積物を併用した上でのより綿密な火山学的検討ができるはずであり,今後の発展が望まれる.ここでは,主要な史料記述とこれまでの研究から得られた知識をまとめ,宝永噴火全体を概観するにとどめる.
宝永4年10月4日(新暦1707年10月28日)に南海および駿河トラフを震源域とするM8クラスのプレート境界地震が起きた.この地震のわずか49日後の宝永4年11月23日(新暦1707年12月16日)に富士山の南東斜面にあらたな火口(宝永火口)が開き,プリニー式噴火が発生した.噴火に先だつ十数日間,山麓ではしばしば鳴動が聞こえ,3〜4日前からは有感地震がひんぱんに起きるようになった.有感地震の回数は噴火前日の午後から急増し,噴火日の朝にはとくに大きなゆれが感じられた.
噴火は午前10時頃に激しい鳴動とともに始まり,噴煙が空をおおった場所では昼間でも夜のように暗くなった.宝永火口から東北東に100km離れた江戸では,23日正午頃から白い灰が降り始め,15時頃から室内では照明が必要になり,夜に入って灰の色は黒色に変化した.この灰の色の変化は,火口近傍での軽石からスコリアへの変化(主としてSiO2成分の減少)に対応したものである.
宝永噴火のクライマックスは11月23日と24日であり,25日以後は多少の消長を交えながら徐々に衰えていき,12月9日(新暦1708年1月1日)午前4時頃の爆発音を最後として噴火停止した.なお,ここに書いた個々の現象の時刻は史料によってまちまちであり,正確なものを求めるためには今後の厳密な史料批判と考証を必要とする.噴火現象が1707年中に終了したか1708年にまで持ち越したかも微妙である.
宝永噴火によって噴出したマグマ総量は0.7立方kmであり,それらはすべて降下火砕物として放出され,東に向かう分布軸をもって分布している.噴火の結果として,北西-南東方向に連なる3つの火口(宝永火口)が富士山南東斜面上に残された.
◆ 出典:フリー百科事典Wikipedia
宝永大噴火(ほうえいだいふんか)とは、江戸時代の1707年(宝永4年)12月
に富士山が噴火した事件。平安時代に起きた2回の大きな噴火(延暦の大噴火、貞観の大噴火)とあわせて歴史時代の富士山三大噴火と称される。宝永大噴火の特徴は大量の火山灰で、100km離れた江戸まで火山灰が積もったが、溶岩の流下は無かった。この噴火の噴出物量は8億立方メートルと見積もられている。噴火は富士山の東南斜面で起こり、3つの火口が形成された。上から順に第一、第二、第三宝永火口が重なり合って並んでいるが、第一火口が最も大きいため麓から見ると第一火口のみ目立つ。この時以後富士山は噴火していない。
● 宝永地震との関係
この噴火は日本最大級の地震の直後に発生している。地震の前まで富士山の火山活動は比較的穏やかであったことが知られているが、大地震の49日後に大規模な噴火が始まった。地震の震源域となった南海トラフを東北に延長すると、駿河湾を通って、富士山西麗の活断層富士川河口断層帯と連続している。宝永地震の翌日には富士宮市富士宮付近を震源とする大きな余震が発生した。
富士山宝永火口:上から第1火口、第2火口,第3火口、4宝永山

噴火は富士山の東南斜面で起こり、3つの火口が形成された。上から順に第一、第二、第三宝永火口が重なり合って並んでいるが、第一火口が最も大きいため麓から見ると第一火口のみ目立つ。この時以後富士山は噴火していない。
富士山大噴火による降灰可能性マップ

<富士山宝永噴火から間もなく300年 ―ライフラインは大丈夫か>
執筆:大間知倫氏(地域防災研究所所長)
記事提供:保険毎日新聞 2006年12月20日掲載分より
2007年は富士宝永噴火から300年になる。神奈川県歴史博物館では、11月に「富士山大噴火」―宝永の「砂降り」と神奈川―という特別展示が行われていた。わたしは一度足を運んだところ、中央防災会議が最近まとめた富士山宝永噴火の報告会が開催されるということで、再度、歴史博物館の「災害教訓の継承に関する専門調査会」報告会に基づく掲題報告会に臨んだ。
● 水道ライフライン、190〜230万人に影響
報告は、語り部の平野啓子さんによる新田次郎の『怒る富士』の朗読から始まった。迫力のある朗読であった。続いて富士山噴火調査の責任者であった荒牧重雄さんの報告、富士噴火土砂災害、「山北町城」の噴火災害と「復興」への認識、「酒匂川と足柄平野の水害と治水等について」各担当者から発表された。同報告の詳細は内閣府のホームページでも見ることができる。
司会は伊藤和明さんで時間はあっという間に過ぎて、質疑応答の時間が不足するほどであった。山北町からはバスをチャーターしての参加もあり、熱意のほどがうかがえた。展示にもあるが「天地返し」で降り積もった灰を、掘った穴に埋めて、その上に土を乗せて、畑を元通りに回復したことが、山北町教育委員会により発見されたことが紹介され、災害から復旧の労苦が大変であったことが理解できた。
また今年の春に国土交通省の中部地方整備局富士砂防事務所が、富士山の噴火54タイプを三次元ハザードマップとして作成したことが新聞報道されていたので、事務所と連絡をとり、毎年、地域で開催されている日限山小学校の防災フェアで実施してもらいたいこともあり、4人の仲間とともに訪問した。噴火は最高45日間流れ下るところまで映像で見ることができ、子どもたちでもコントローラーで操作すれば、富士山近郊の人は自宅付近の見たい地点を設定できるようにもなっている。
002年に富士山ハザードマップ検討委員会が想定した、ライフライン被害想定では水道が浄水場の処理能力を上回り、給水量が減少し、190〜230万人に影響が出るとしているが、果たしてそうであろうか。降灰は水源地のダムにも降り注ぎ、送水ができなくなる。噴火灰は道路にも積もり、給水車はもちろん、物資の輸送も妨害されて神奈川県民は860万人が飲料水・生活用水に困ることが想定される。300年前には井戸や湧き水に依存する生活で水に悩むことはなかった。このことは神奈川県企業庁水道担当者においても問題の種となっている。また下水は側溝が灰で詰まるが、一部を除きほとんどないとしている。しかし水道がこなければ下水を流すことも不可能である。
検討委員会の見解は水道・下水に関しては不十分極まりないものである。
● 食料・飲料水、もっと長期間の準備をすべき
「地域防災計画」も水道・下水の噴火対策については、触れることがない。水源地のダムや浄水場に大きな屋根を掛けることには無理があるので、ソフトの対策を推進する必要があると思われる。現在、地震対策として3日分の食料・飲料水の保存を県民に促しているが、宝永噴火は2週間継続したこともあり、もっと長期間の準備をするように発表すべきであろう。
またこのような報告会に自治体の防災対策担当者も出席して、対策推進の参考とすべきかと思われるが、そのへんの横の連絡はほとんどないように見受けられる。